明らかに不当な処分なのだが、問題の長期化にいい加減ウンザリしているのが、世間一般の受け止め方。 この問題は日本では理解し難い点が多いと思うが、9月30日付けSunday Timesに載っていたMr Rod Liddleのコラムが興味深かったので、少し(大分)長いけれど要旨を翻訳しておく。
残念ながらこれは英国メディアの代表的意見ではない。 むしろここまで言うのは極めて少数派。
テリーはこの国の神経症のネタになった。(訳者反省:すまん、日本語になってない)
「利益を得るのは弁護士だけ」昨日の或る全国紙の見出しだが、罰金と4試合の出場停止というフットボール協会の馬鹿げた処分に対してアントン・フェルディナンドを差別用語を使って侮辱なんかしていないと上告すると、テリーが語ったことに対して向けられた、何ともわざとらしく誇張されたもっともらしい見出しだ。(訳者注;何とも持って回った言い方、これがTimes紙の英語)
裁判所がテリーを無罪としたのだから、私たちは皆彼がQPRのディフェンダーを差別用語で罵ったりしてないことを知っている。英国の裁判所が無罪と言えばそれは無罪ということだ。それが無罪判決の意味だ。しかしながら、事実や法廷での結果に関らず、一旦差別という言葉が飛び交うと、有罪(差別主義者)というレッテルはこびりつく。
人種差別主義者とみなされる者を追求する際には、全体主義的かつ偏執症的な色彩がつきまとう。ジョン・テリーの場合は特にそうだ。何しろお金が一杯あって、でも何時も世界で一番いい奴と言うわけでもなくて(会ったことがないから未確認だけれど)、そのくせ代表チームの主将というサッカー選手として望む限り最高の栄誉を成し遂げた人物なのだから。
と言うわけで、テリーはこの国の国民的な双子の病的感情、人種差別に対する反感と成功者に対する嫌悪感というとても厄介な感情の挟み撃ちにあってしまったのだ。弁護士だけが勝てる。そう、確かに弁護士は何時だって勝つ。或いは、テリーは差別主義者だとするほのめかしが払拭されないで浮遊している以上、テリーが無罪判決を勝ち得た先の裁判で勝ったのは弁護士だけ、と言えるかもしれない。それはテリーが罪状認否を問われた犯罪というものが被害者とされる人間も自覚せず、いや実際誰一人として目撃していないという基本的に馬鹿馬鹿しいケースだ。誰も見ておらず、誰も聞いていない犯罪。私達は読唇術者のああ言っているのかもしれない、いやこう言っているのだという推測を楽しまされているだけ。もし悪いことが言われたりそれを聞いたとしたら受けた側の人間が傷つく可能性があるかもしれないことについての裁判で、実際それはなかったと明らかになった。
今から何年もして振り返ったら、どうしてこんな狂気に自分たちが捉われて拘ったのだろうと不思議に思うことだろう。思うに、精神分析の父であるジグムンド・フロイドならこれは集団的罪の意識の結果だと、或いは最近てかそれほど最近でないところも含めた私達や私達のペテンに満ちた歴史を何とか問わないで来たことの身代わりとして他人を差別主義者として告発しているというようなことを言うのだろう。そしてまた、すべての公式の立場にある人々や偽の公式の立場にある人々―記者や評論家のことを指しているのだが、がこの狂気と歩調を合わせるのは、怒りの遠吠えであれ、ジョンを差別主義者と串刺しにするのであれ、それらに異議を唱えることは自分自身が差別主義者の仲間とみられかねないないからだ。(訳者自嘲:まるで初期の大江健三郎の文章みたい。)それって、自分のキャリアにとって致命的だろう。それに、一旦そう見られたらどんなに大声で振り払おうとしても差別主義者という非難はこびりつく。我々はほんに魔女狩りの世界にいるわけだ。
これは私に魔女狩りに使われた水責め椅子を想い起させる。告発された人間はこの椅子に縛り付けられて池か川に沈められる。もし生き残れば魔女で溺れれば魔女じゃなかったという仕組みだ。まるでこれが私たちがテリーに迫った選択のようだ。無罪だって、そう、じゃあ、それを見せてもらおうか、ブクブクブク。
利益を得るのは弁護士だけ、だから上告は取り下げろ、テリー、お前は汚い差別主義者、協会がセットアップした人民裁判の評決を受け入れな。暴徒による人民裁判、追及なんて生優しいものじゃない、それは事実に基づいたどんな考慮も超えてテリーは有罪でなければならないとする決め付けの裁判。実際、どんな常識も超えている。
どうして、テリーはこんな非道な行いに譲歩しないといけないのか。どうして彼は戦ってはいけないのか。彼はこの9ヶ月間毎日のように中傷され、代表チームの主将の座を追われ、それは誤った処分なのに、「可能性において」ということで過去に遡って差別主義者であると決め付けられ、22万ポンドの罰金と4試合の出場停止を課せられてしまったのだ。
でも、彼はこの当局により誘発された誹謗中傷、悪意を受け止め耐えなければいけない、と言う、一体何の根拠でそうなるのか。彼が金持ちだからか。彼がサッカー選手だからか。これは、黒人の選手たちと一緒に育ち、一番の親友が黒人で、毎週黒人のプレイヤー達と試合をしてきた労働者階級(Working class)の男なのだ。 彼は木蓮の花の色の肌をした高尚なガーディアンとかの論説記者とか、実際サッカー協会の上層部を占めている太ったサル達よりも、この多重文化を受け容れる社会に調和している。それなのに、どうしてこの中流階級の進歩的な体制が作り上げた権威が、そうではないと言う裁判の結果に反して、彼が人種差別主義者だと決め付けるのを、受け容れないといけないのか。 私は彼がもうあまりに長い間この不当な扱いを受け入れ過ぎたと考えているのではないかと思う。そして彼の考えは正しい。もし必要なら彼の上告のための募金に寄付をしてもいい。
と言っても大した金額じゃなくて、まあ彼の弁護士費用の42秒分ぐらいかもしれないけれど。
思うに、この国の大半の人はこのごった煮がでっち上げられ、泡立てられたもので、テリーは不当に非難されていると感じているのではないか、と思う。しかしこの感覚はいままで述べてきたような理由で広くメディアのから紹介されることはない。 このケースは私達の支配階級や圧力団体、太った評論家達が世の中の一般的感覚から踏み外れてしまった一つの例だと思う。 しかし、まあそうは言ってもこれは推測ですが。
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