Hull戦の書き込みが途中のまま、次戦レスター戦までに何とかしなきゃと思っているうちに、腰を抜かしてビックリすることが起こってしまった。
えっ、ディランがノーベル賞?
腰を抜かすことはない、前から何度かそういう噂はあった。
しかし、ここへ来てトンと聞かなくなったし、目下はHの字で持ちきりだったから、そちらに気を取られていた。 (何とか日本語のために回避してほしいなあ、と。)
前兆はあった。
数か月前、70年代のアンプの調子が悪くてロンドン郊外のオタクのお兄さんに修理を頼みピックアップに行った。 お兄さんが、これでどんな音楽を聞くのか、クラシック?ジャズ?と聞くから、そんな高尚なものではなく、古いロックとかポップとか。 例えばと聞かれて、ウーン、ニルバーナとか?、そうニルバーナとかユーライアヒープなんかも(全然脈絡がない。)。 あー、インディロックね。(ユーライアヒープはインディだったのだ。)
それから、Dylanかな。
ああ、Bob Dylan. Bob Dylan is the most underestimated artist.
He is huge.
と言われた。 え、ディランが最も過小評価されてるって? 過大評価の間違いじゃないの? と、思ったがお兄さんの世代ではそうなのかもしれない、と反応はしなかった。
それがディランのアルバート・ホールでのチケットをポール・サイモンファンの日本人の留学生から購入させてもらった時以来、三年振りぐらいのディランについての第三者との会話だった。
先週末、BBC2の深夜映画でニューヨークのダウンタウンを舞台にした売れないアーチストを主人公にした「Begin Again」を見ながら、ディランになれなかった、Dave Van Ronkの暗い映画を思い出して、感慨に耽っていたら、次の映画で聞きなれた声が聞こえて来た。 2000年の映画「Wonder boy」の主題歌をディランが歌っていた。 "Things Have Changed"、"The Times They re A-Changin'"からずいぶん時間がたって、色んなことが変わってしまったのだ。
翌週、20代の女性にForever Youngのスティッカーを送った。
自分のi-PodにはCD800枚分ぐらいのアルバムが収録されている。ある時期手元にあるCDをi-Podに移したものだが、ズボラだから、それ以降新しいアルバムとか曲とか殆どダウンロードしていない。CDに買い替える前に持っていたビニール盤も殆どがそのままだ。 そのi-PodでDylanを検索するとAll songs 573曲と出てくる。次がザ・ビートルズで453曲で、その両者が他を圧倒している。 ディランはまだ新しいアルバムで増えており、更にビニール盤を加えると他のアルバムを圧倒してしまう。
ディランが日本に来たのは、78年だった。 武道館で確か10回か11回公演したと思う。 ディランのような気難しい大物が日本に来ることなんてないだろう、と言う雰囲気があった時代で、日本に来ること、10回以上も人前に姿を現すことはスキャンダルだった。
その頃、何故か音楽評論家の方と付き合う機会があり、初日か2日目かの後、湯川れい子さんや故福田一郎さん他数人とヒルトンホテルに夜食を取りに行った。
当時のディランは、日本ではまだフォークの神様であり、’風に吹かれて’のボブ・ディランだった。
福田一郎さんは「神様が出てきちゃいけないよ、まして10回も公演しちゃだめだ。」と言っていた。
私にとってのディランは、既にその時点でPositively 4th streetの神経症的青年であり、Everybody must get stonedと薬物でラリって、Idiot windに翻弄される中年男だった。 将来70歳になっても(もう越してしまった)、お化粧をしてガラガラのサーカス小屋で(お化粧はしているが、未だガラガラにはならない)、飛び跳ねるような韻(Lime)を踏んだイメージの連鎖、哲学的な深淵な含みがあるような実はないような、All along the watchtowerと歌ってほしいと思った。 未だ安かった給料をはたいて、確か7回ぐらい見に行ったと思う。 後で、ケチらないで全て行けば良かったと後悔した。
それからディランは、Born-again Christian になり、すっかり忘れてテクノに走り、突然アコースティックに戻ってきた。 ディランをフォローしてきた者にとって、それは不思議でも何でもない、私達と同じ様に、生きてきたというだけのことだ。
私自身は、仕事が佳境に入り、ニューヨークに駐在し、狂乱のバブルを日本で楽しみ、後始末をした。 あっちこっちに飛び回る時、最初はウォークマンがその後はCDプレイヤーのミニヘッドフォンが同行した。 After the FloodやBlood on the Tracksが一緒に来た。
93年、活動30周年記念コンサートのBSライブを、NY行き飛行機の待ち時間に成田で見ることができてとても嬉しかった。 その頃からノーベル賞の話はあったような気がする。(違うかもしれない。)
あれからさらに25年経った。
その間、ディランは活動を止めなかった。 10年に来日した時には2500人しか入らないライブハウス、ゼップ東京で5日か6日か殆ど連続でライブをした。 一時期のダルなギターは辞めて、キーボードの前でエビ反りロッカーになった。 この時には、ダフ屋で買って、行ける日はすべて行った。
30数年前と同じように湯川れい子さん一行が見え、挨拶しようかと思ったが恐らく覚えられていないだろう、と遠慮した。後から、挨拶だけでもしておけば良かったとまた、後悔した。
2014年ロイヤルアルバートホールでの公演では、4階席の立見席だったが、ステージを見下ろした途端に驚いた。 ど真ん中にグランドピアノが、ドーンと。 クラシックのピアノ奏者にとっては、夢のような舞台であろうロイヤル・アルバート・ホールで、ピアノについては何の実績もないディランが中央で弾くのだ。 私のピアノの先生には話したら、口惜しさできっと卒倒したことだろう。
最近のTogether Through LifeからTempestにかけては、詞に老人性鬱病的傾向があるような気がしたが、その後、かってはヤクザとつるんだ芸能界のドンとして、決して同じ扱いをされることを潔しとしなかったであろう、フランク・シナトラのカラオケで悦に入っているようで、まだまだ元気だ。
昔、NYにいた時英国の若いバンドにインタビューしたことがあって、歌で世界を変えられると思うか、と聞いた時、Definitelyと答えられた。 ボブ・ディランがいなかったら、ベトナム戦争が終わるまでもう少し時間がかかっただろう、と。 そのあまりにも単純なナイーブさには参ったが、彼の言ったことにも間違いはないのだろう。もしかしたら、昔聞いたノーベル賞の話は、ノーベル平和賞だったかもしれない。
確かに、ディランがその歌を通して数えきれないほど多くの人に語り掛け、影響を与えてきたことには疑いがない。 しかし、ディランが歌ったのは反戦だけではない、と言うより、反戦について歌ったのは彼の全体像の中のほんの一部でしかない。
ポップミュージック、ボブ・ディランがノーベル賞をもらったことで、ノーベル賞の意味が分からなくなった、という意見があるようだが、影響力のある優れた文学に与えられる(必ずしも一番を意味するものではない)という意味では、ディランの影響は群を抜いている。 存命する現代作家でもディランをしのぐ作家は思いあたらない。 というか、足元にすら及ばず勝負にならない、と思う。 日本人にはなかなか理解できないLimeに載せて、はじけるようなイメージの連鎖を織り交ぜながら、ディランはこの50余年間、生きるということがどういうことか、人生とは何なのかを問い続け、歌い続けてきた、それこそが文学が探し求めるものではないだろうか。
余計な補足
Bob Dylan 本名は Robert Allen Zimmerman。
Dylanはアイルランドの詩人Dylan Thomasから借用したと言われている。
Zimmermanとう名前があまりにユダヤ的で、反ユダヤ的(Anti Semitic)偏見に悩まされたくなかった、と。 確か、後年正式(法的)に改名したんだったと思う。
この例からわかるように、Dylanは完全なユダヤ人で、Anti-Semiticな立場に対して、時として過剰に反応し、物議をかもすことがある。(フランスでは民族的憎悪をあおったとして告発された。)
因みに、ノーベル賞は作家の政治的発言に比較的寛容というか、むしろ社会へのコミットを評価する傾向がある。
Hの書くものに、政治的色彩は全くないように思われるが、それではノーベル賞をもらうのには迫力に欠けると思ったのか、過去に政治的発言をしたことがある。 それはイスラエルのパレスチナ人を守ろうとするものだった。 それは、Dylan 等とは反対側にある立場のもの。
ノーベル賞委員会は賞金を管理する財団であり、当然ユダヤ系色彩が強いのでは、と思う。それを知って、けんかを売るつもりでパレスチナ支持発言をしたのだろうか。だとすれば立派なものだが。
まずDylanにやってユダヤ系の気持ちをなだめたうえで、次はHに、と言う深謀があるのでは、とH陣営は期待しているかな。